素材発掘と巧みの妙
虎模様の竹と巧みの技が織り成す和の世界
虎斑竹製品 山岸義浩【高知県須崎】
ミラクル・バンブー
かぐや姫が主人公の竹取物語に代表されるように、日本人と竹のかかわりは実に古く、そして深い。里山に限らず都会の片隅にでもちょっとした縁があれば、そこには竹林が必ずといっていいほど存在している。特に、幹が太く、背丈が十メートルほどに成長する孟宗竹は、たけのこが食用、材は道具や器に加工され使われてきた。また、笹など小型の竹は坪庭などインテリアとしても用いられる。
そうした竹のなかでも、一風変わった品種がある。淡竹(はちく)の仲間ではあるが、その表面に虎皮状の模様を持ち、火であぶるとその模様がよりいっそう際立ってくるという竹。その名も虎斑竹(とらふだけ)と言い、もともとは岡山県の東北一帯に自生していた。地中にある土着の菌が寄生して、なんとも言い様のない美しい模様を生む、らしいのだが、いまだその原因は解明されておらず、移植をしようとしても他の地では一切育たないという。それだけに竹を加工して作る製品の素材には、欠かせない最高級品として珍重されてきた。明治二十七(1894)年創業。一世紀以上の歴史を誇る山岸竹材店の初代、山岸宇三郎も、虎斑竹の美しさに惚れ込み、その価値を見出した一人。当時は大阪、天王寺に店を構え、岡山の虎斑竹を扱っていた。しかし、他には決して自生しないと言われ、希少価値の高まった虎斑竹を守らんがため、時の内務省に働きかけ、わが国の天然記念物に指定しようという動きが急速に高まり、岡山の虎斑竹は第一号の指定を受けることとなった。皮肉にもそのことが盗伐を招き、天然記念物であるがゆえに竹林に手を入れる事も儘ならず、やがて衰退の一途をたどることになる。
こうして虎斑竹は市場流通から疎外され、全国の竹材商が次々と手を引くなか、たった一人あきらめない男がいた。山岸宇三郎、その人である。良き竹を求め全国を行脚する途中で、「他では決して自生しない」といわれていた虎斑竹が生える場所があることを聞きつけた。それが現在の須崎市安和である。当時満足な道も鉄路も無く、陸の孤島であった地に立ち、遍路も行き倒れになったという山道に分け入り、「そこにあるはず」と聞かされた虎斑竹を見つけ出した執念。
「虎竹に惚れ込んだ初代の想い、この竹ならばこそ、良い製品が生まれるんだ、というこだわりを感じずにはおれません」と四代目を継ぐ義浩。さらに初代、宇三郎は安和の山主を一軒ずつ廻り、高値で売れていた杉や檜をやめて虎斑竹を植えるよう説得。「おんしゃぁ、何をいうちょるがよ」といかぶる山主に対し「竹は全部ワシが買い取る」と言い、虎斑竹の山主を三十軒にまで増やした、という逸話が残る。とはいえ排他的な山里のこと、その苦労はいかばかりのものであったか、拝察するに忍びない。それでも一番の山主から嫁をめとり、安和を虎斑竹のわが国唯一の産地に育て上げた先代、宇三郎の功績、その想いは、二代目義治、三代目義継、そして四代目義浩にしっかりと受け継がれ、一世紀を経た現在も絶えることなく虎斑竹は安和の山に群生している。
その間、学術的な解明を試みるも虎皮状の原因は不明。テレビや新聞、雑誌などにも多数取り上げられ、やがて海外からもマスコミが取材に訪れる。虎斑竹のいわれを聞かされたイギリスBBCの記者いわく「ミラクル!ミラクル!ミラクル!」。奇跡の竹が生まれた瞬間である。
生まれながらの竹屋?
「これはあんまり人に言うなといわれちょるんですが」と四代目義浩。
「大学四年の夏、よさこい祭りの抽選会が終わって、夜遅うに帰って寝ちょった時、そう雨が降りよりました。ふっ、と気がついてパンツ一丁で工場に行ったがです。そしたら、雨宿りのつもりか軒先で誰ぞが燃やした火の不始末でしょうね。パンパン燃えよった。竹は油分が多いので、一旦火がついたらおいそれとは消せません。全焼ですわ。めったに家に帰らん僕が、よりによって帰ったその日に火事。翌朝、気がついたらパンツ一丁のまま現場にたってた僕は、これはのほほんと毎日を過ごしていた僕に、竹がしっかりせいと活をいれてくれたな、と悟りました。竹が僕を呼んじゅう、と思いましたね。」
そして義浩は家業を継ぐ決意をしたものの、社長の息子という周囲の気づかい、この道四十年以上という職人は徒弟制度のたたき上げ、いかに社長の息子が相手でも「なーんも教えてくれりゃぁせん。」
自分は本当に役に立っているのか、毎日を無為に過ごしているようで悶々としている頃、ひとつの転機が訪れた。祖父にあたる二代目義治が作った門扉、袖垣、門構えを新しくする依頼が舞い込み、二十数年ぶりに孫の手によって作り替えられた。施行後、施主から「あなた方の仕事はすばらしい。人の役に立ちゆうね」と絶賛され、目から鱗が落ちた。「漠然とあたりまえのように取り組んでいた仕事が、これほどまでに喜んでもらえるのかと。人生をかけるに値する仕事だったんだと」気づいた義浩。初代、、宇三郎の虎斑竹に対する想いと行動力、百十一年間続いてきた暖簾を引き継いでいく使命感。酒もタバコもたしなまない自分から、竹さえも取られてしまったら何も残らない。竹は誰にも負けたくない、竹で天下を取る。徳川家三代将軍、家光が生まれながらの将軍と自ら言い切ったように、自分も生まれながらの竹屋として新たなスタートを切る。
そして販路拡大と虎斑竹のすばらしさを全国に発信するため、インターネットを使ったネットショップに着目。職人が一つひとつ手づくりする製品の購入はもちろん、虎斑竹に対する自身の想い、かかわる人々とその仕事ぶり、虎斑竹の里、安和の紹介など内容は多岐にわたり、全国から数多く寄せられるさまざまな反応に「手ごたえを感じている」。こうした活動を通じて「高齢化が進む山の仕事、あるいは物づくりを担う次の世代が現れてくれたら、と思うちょります」。「特に虎斑竹の山は人が適切に管理しないとすぐに荒れます。良い親竹を残しつつ、竹を傷つけず切り出す技術と目利きの力をもって、次の世代に引き継いでいかないと。商いができる虎斑竹の産地はここだけですから」。
義浩の視線の先には風にざわめく虎斑竹の林と、その向こうにある市場という大海原が見えているに違いない。かつて日本の夜明けを熱心に説いた坂本龍馬がそうであったように。
(雑誌「四国旅マガジンGajA 2005年11月1日発行 No.026号」より転載)