インターネットが拓く竹文化の未来
山岸義浩
箸や籠、傘、竹炭、竿、農漁業用具、建築用材、庭園用材など、日本人の日々の生活や仕事の中に竹製品が深く根ざしていた時代、当社は大阪天王寺で竹材商を営む曾祖父宇三郎によって明治二十七年に創業されました。
そして、宇三郎が全国の良質な竹材を訪ね歩く中で出逢ったのが、不思議と高知県安和の地でしか生育しない、竹の表面に独特の虎模様が浮き出る虎斑竹でした。やがて、足繁く通ううちに宇三郎は山主の娘だった曾祖母イトと結婚。その後、戦禍で大阪の工場が被災したこともあり、宇三郎の跡を継いだ祖父義治は昭和二十一年に曾祖母の実家に拠点を移すことを決断。以後、山岸家は安和の地で、宇三郎、義治、父義継、私の四代にわたり営々と竹で商ってきたのです。しかし、その歩みは倒産の危機に直面するなど、決して平坦ではありませんでした。
そもそも、私は幼い頃から竹に囲まれて育ったものの、全寮制の中学高校に通い、関西の大学に進学、実家に帰ることはほとんどなく、本気で家業を継ごうとは考えていませんでした。そんな私の人生の転機となったのは、就職を控えた大学四年の夏、実家に帰省した際に遭遇したある不思議な出来事でした。いまでもその日のことは鮮明に思い出すことができますが、もう寝ようと思い布団に入ると、誰かが私を呼んでいる気がするのです。その声に導かれるままに、真っ暗な夜道を自宅から離れた工場まで歩いていくと、何と工場が真っ赤に燃え上がっているではありませんか。
そして、家族も異変に気づき駆けつけて来たのですが、激しく燃える工場を見た母はその場で泣き崩れました。その母を抱きかかえた時、「お母さんはこんなに軽かったのか......。俺がこの会社を立て直す」と、私は家業を継ぐことを決意したのです。
工場は何とか再建することができ、私は大学卒業後、高い志をもって入社。ところが、山に分け入り、竹の切り出しにはじまる現場は想像以上に過酷な重労働、一日が終われば汚れで全身真っ黒になる、まさに典型的な三K(きつい・汚い・危険)の仕事でした。目が覚めれば「一日も早く辞めたい」と思う、地獄のような日々が続きました。
仕事に向き合う私の姿勢が変わったのは入社八年目、ある女性のお客様が訪ねてこられ、私の手を握り、「あなたの竹製品に癒されます」と感謝の言葉を掛けてくださったのがきっかけでした。「自分の仕事は人様のお役に立っているんだ」と実感できたことで、私は仕事に真摯に向き合うようになったのです。
ところが、その矢先、海外の安価な竹製品の輸入、日本人の生活スタイルの変化などが相俟って、竹材産業全体の先行きが厳しくなっていきます。同業者が次々と廃業していく中で、私は何とか活路を見出そうと、地元の物産展や百貨店などに販路を切り替えるべくあらゆる手を尽くしました。しかし、努力空しくバブルが崩壊、百貨店の低迷とともに、当社の売り上げも急激に落ちていったのでした。
その一方、私には修理すれば何度でも使え、人にも環境にも優しい竹製品の価値が見直される時が必ず来るとの思いがありました。そして最後の最後、藁をも?む思いで試みたのが、当時脚光を浴び始めていたインターネットでの情報発信でした。
平成九年、私は独学でネットショップを立ち上げ、少しずつ情報発信を開始。しかし、全くアクセスがありません。事業資金もぎりぎりの中、結局三年間でネットショップからはたったの三百円しか売れませんでした。
そして万策尽き、いよいよという時でした。参加したある経営勉強会で出逢った、恩師ともいうべき講師の方の次の助言が当社の運命を決めたのです。「自分がネットショップのお客さんになったこともないのに売れるはずがないでしょう」
確かに自分自身が利用したことがない――。その言葉にハッとした私は、他社のネットショップを利用し始め、気がついたことを自社の情報発信に取り入れていきました。虎斑竹の特徴や当社の歴史を紹介してみたり、目を引く動画コンテンツを充実させてみたりと、とにかく竹製品の素晴らしさを知ってもらいたいとの一心で、やれることにはすべて取り組みました。
その熱意が伝わったのでしょうか、まもなくしてアクセスが増え始め、平成十四年十二月には売り上げが百万円を突破。平成十五年には、なんと「日本オンラインショッピング大賞」を受賞することができたのです。
その後も、口コミで評判が広がり、アクセスは増えていき、売り上げもどんどん上がっていきました。熱い思いさえがあれば必ず画面越しにでも伝わる、そのことを実感しました。
またネットショップが軌道に乗るにつれて、お客様から嬉しい声が多く寄せられるようにもなりました。勉強やスポーツが得意だったわけでもない、高卒で入社した人が大半の当社の社員、職人たちが、お客様の感謝の声に接していく中でどんどん変わっていくのです。些細なことかもしれませんが、入社以来二十数年、挨拶もできなかったある職人さんが、お客様に「いらっしゃいませ」と言えるようになったのです。
その光景を見た時、私は思わず涙が溢れました。売り上げなどよりも、経営者として社員一人ひとりの成長ほど嬉しいことはありません。
「笑」という字には、竹冠がついています。これからも長い歴史の中でずっと日本人の生活に寄り添ってきた竹製品の素晴らしさを発信し、人々の笑顔をつくっていきたい。それが支えてくださった皆様への恩返しであり、心からの私の願いです。
(やまぎし・よしひろ=山岸竹材店社長)
(雑誌「致知 2016年 7月号」より転載)