竹の経年変色を言い続けてきて、最近ようやくその魅力に気づき始めた方々がおられて嬉しい。少しづつ認知が広がってきたので、これからもっともっと多くの方に知っていただきたいと思っている。少し前なら真竹をそのまま竹編みにする竹細工は、青いうちでないとお客様に手に取ってもらえないと言う職人もいたが、それは間違っている。
もちろん、青竹細工を「青物」と呼ぶくらいだから新鮮な青さのある美しい色合いは人目を引く。しかし、作り手を離れ人の暮らしの中で使われる道具としての竹編みは、使い手によって育つものでもある。竹表皮を残した本体編みと、表皮を磨いた(剥いだ)口巻部分、上蓋では同じ時間の経過でもこれだけ色合いが異なる。
竹表皮も渋くなってきているけれど磨きの口巻はどうだ、つやつやと飴色に輝いている。
今では作る方のいなくなった竹お玉も、持ち手の竹を割って先の竹ざる部分を編んでいる。同じ竹なのに、このコントラストは感動しないだろうか?
この手の平ざるも小さいサイズなら見かける事もあるけれど、昔は3尺(90センチ)、4尺(120センチ)くらいの大きさも普通にあった。今度久しぶりに大きなサイズが製作できたらと思っているが、網代の編み目に白っぽい模様のように見えている。
これが竹表皮と磨きで織りなす彩なのだ。一本の竹ヒゴの中央部分だけを磨くから、竹皮の残る両側とで面白い模様となる。ここまで極端でなくとも、日常的に使っていた竹ざるでも四ツ目籠でも同じような竹ヒゴあしらいをしていた古老がいた。いつも自然体で、まるでクセのようにヒゴを軽く磨くのが不思議だった。
一度、どうしてそのような手間をかけるのか訊ねてみた事がある、「親父がしよったき(していたから)」と刃物から目を話さず言う。恐らく理由はある、しかし先人へのリスペクトに心が温かくなって黙っていた。
コメントする