昭和39年、株式会社山岸竹材店

虎竹の里


この小さな集落に竹虎が本社移転したのは戦後の事、空襲で焼け野原となった大阪天王寺の工場からだった。曽祖母さんの里を頼り疎開していた高知の片田舎への拠点移動は、さぞ大きな決断だったに違いない。しかし、この地は日本で唯一の虎竹の生産地であり、竹虎を応援してくださる多くの人に恵まれていた。


竹虎四代目(山岸義浩)、竹林


最近、地元の古老とお話しする機会を何度もいただいている。ご自宅でお話しを伺っていると、昔の話に胸が熱くなってくる。そして、どこのお家からも言葉にする、しないはあるけれど竹虎への期待と応援と、何より大きな信頼を感じる。これはもちろん、自分へのそれではなく父や祖父や曾祖父が、この里でどれだけの汗を流してきたかの証だと心から思う。


竹虎社員


「須崎市 昔の記録」というYouTube動画を教えてもらった。昭和39年撮影だから今から60年前の竹虎の様子が映っている。当時の須崎市内を紹介する動画の中で、1分余りの短い時間だけれど、ヨーロッパへの輸出用釣り竿を製造している様子や、大正2年頃に虎竹移植をして生産を増やしてきた事などナレーションで語られている。懐かしい工場、忙しそうに働く沢山の職人さんたち、見覚えのある方もいる!60名もの方々に仕事に集まっていただいていた頃の活気が伝わってきて魅入ってしまう。


虎竹の竹林


地域の皆様に頂く期待や信頼は、かつて藩政時代には「哀れむべき浦にて候」とまで言われた農作物が乏しい安和で、年間5万束もの虎竹を製造し特産品にまで成長させてきた先人に対してだ。動画では曲がりくねった未舗装の道路を、虎竹を満載にした三輪車が走って行く。あれから国道は整備され、トラックは最新型に変わったが、焼坂に見える竹林は変わらない。


コメントする