続・高祖父、山岸安兵衛に導かれた話

 
大阪、本政寺


昨日の30年ブログで触れた高祖父、山岸安兵衛の建てた奉塔については随分前にも書いた事があるけれど改めて記載しておきたい。元々山岸家の菩提寺は堺市にある月蔵寺だったのだが、どういう理由か現在の大阪市中央区にある本政寺に移り、高祖父は亡くなる2年前の大正4年にこの奉塔を建てている。曾祖父宇三郎が明治27年に創業した竹材商は天王寺にあったので目と鼻の先だ、きっと此処には何度も足を運んだに違いない。


竹虎四代目(山岸義浩)


当時の大阪から考えたら、南国土佐はまるで海外くらい遠かったと思う。先日、手直ししてもらったばかりの作務衣は袖に真新しい藍染め生地を縫い付けてあるものだから「まるで島流しやね」と笑われた(時代劇で悪人役が腕に入れ墨されている)。「もともと高知は流刑の地だからピッタリよ!」と冗談を返したけれど、遠い昔には本当にそれくらい離れた土地だった。


本政寺、山岸安兵衛の建てた奉塔


宇三郎が、そんな異国のような地に日本唯一の虎竹を求めて出かける時、無事に帰ってきた時、山主の娘イトと知り合い結ばれた時、折にふれてやってきた場所が此処だと改めて感じる事ができた。


本政寺、山岸安兵衛の建てた奉塔


天王寺の竹工場には、人望の厚い曾祖父を頼って虎竹の里から沢山の男たちが出稼ぎに来ていたという。だから嫁いで来た曾祖母のイトは同郷の者たちに囲まれて寂しくはなかっただろう。自分の祖母が虎竹の里に暮らしながら一生大阪弁が抜けなかったように、イトたちも浪速の町でも土佐弁だったのではないだろうか?本当に故郷は遠きにありて思うものだ、奉塔の前に立ち、つくづく虎竹の里の御恩を思う。虎竹の里の人や虎竹に自分たちならではの恩返しができるはずだ。


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