「植物を愛すれば、世界中から争いがなくなるでしょう。」先日の4月24日に生誕160年を迎えられた高知出身の世界的植物学者、牧野富太郎博士の言葉です。この日の地元高知新聞は、牧野博士の大好きだったという桜の花が印刷された新聞カバーとでも呼ぶべきでしょうか?初めて見るような特別バージョンで誕生日をお祝いされていました。
実は土佐虎斑竹の名前を命名されたのは牧野博士でした。それが1916年(大正5年)の事で、当社初代宇三郎が大阪天王寺の工場にてヨーロッパへの輸出材として虎竹製造を開始したのが、その前年の1915年です。二人は当時何もなかった虎竹の里に、竹という目的を持って他の土地から出入りしていた数少ない人間でしたので何処かで出会っているのではないかと思っています。
土佐藩政時代には「憐れむべき浦にて候」と時の代官が書き残しているくらい当時の安和(あわ)地区は漁業に適した港を持たず、農地も少ない貧しいドン底の集落でした。若い頃、土地の名前の由来に興味を持って調べていたら須崎と久礼という大きな町の間という意味だと書かれていましたけれど、本当は「憐れむべき」の「アワ」から来ているのではないか?と土地のお年寄り達は笑います。
唯一の珍しい模様の浮かびあがる虎竹を年貢の代わりに献上して何とか苦難を乗り越えていた諸先輩にとって、山や竹林の価値は今では考えられないほど高く部外者が立ち入れる場所ではありませんでした。自分の小さい頃には山に向かう人や車は沿道の民家によってチェックされていて、見慣れない場合には追いかけて声をかけるような光景が見られていました。
牧野博士も長い年月に渡り何度か虎竹の里を訪れられているようですし、竹虎初代宇三郎は竹伐採シーズンには長期滞在していましたので、閉鎖的な地域で同じ虎竹に引き寄せられた者同士の交流があったのは自然な事のように思います。
いずれにせよ牧野博士の100年も前の言葉が、今を生きる自分達に大きな教訓として胸に突き刺さります。「植物を愛すれば、世界中から争いがなくなるでしょう。」
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