自分の大好きな一枚の写真があるがです。50年前、まだまだ貧しい時代やったのか、今のように何でもモノがあるワケではなかったがです。テレビは白黒やったし、自家用車もあまり走っていなかった、洗濯は井戸から手押しポンプで汲み上げた水を大きなタライに張って洗いよりました。竹虎も、手狭な倉庫と借地で竹の仕事をしよりましたので竹を積み込んだり、干したりするのは虎竹の里のすぐ前に広がる安和海岸ぜよ。自分は寄せては返す波音の聞こえる浜の、ずっと向こうまで広げられた竹の中で遊んで育ったがです。遊び相手は祖父がどうしても飼いたいと家族を説得して警察犬訓練所にまで預けてしつけたシェパードの「アトマ」。この一枚は自分が幼かった頃の、そんな山岸家のある日の一枚ぜよ。
「ずっと後ろに写っている、吹けば飛んでしまうような掘っ立て小屋のような建物が竹虎の本社ぞね」若い社員や学生さんに、ことあるごとに話すたび、目を丸くされますちや。毎日休みもなく働く祖父と父、真っ黒くなって帰って来たらガツガツ音をたててご飯を食べて、裸電球の下の団らん。まっこと幸せやった。この一枚の写真から、竹虎二代目の自信、三代目のやりがいが伝わってくる。熱うなる。
自分は大学四回生の夏の大火災がキッカケで卒業するとすぐに実家に戻ってきたのです。帰ってきたものの竹が好きになれるワケがない、こんな仕事と思うて大嫌いやったがです。辞めたくて仕方なかったけんど、他にできる事もないきに続けるしかなかったがぜよ。けんど最初から竹に生きて、竹に死のうと思うちゅう人など、いや竹に限らず何でもそうです。初めから本気になっている人などおりますろうか?それでも、竹虎のような歴史のある凄い仕事、繋いでいくのは簡単ではないがです。自分は今でも、とても満足に継がせてもろうちゅうとは思うてないばあやきに。
50年経って、この写真を見て亡くなった祖父と祖母に報告したいことがあるがぞね。竹虎は全日本竹産業連合会会長賞の表彰を頂きました。今年は鹿児島大会とあって、さすが竹の本場ですちや、会場には500人もの方が集まられちょって、こじゃんと緊張しましたちや!けんど何とか、あんなに遠く、高く、近寄り難いと思いよったステージに上がらせて頂きました。
もちろん、自分が頂いたものではありません。曾じいさんが旗をたてたこの地に、おじいちゃんや、おばあちゃんが、天王寺の工場から本社を移し志を継いで苦労してくれたお陰やろう。父や母が後に続き、自分たちは、ただその後に続かせてもろうちゅうだけながぜよ。これからも少しでも、あの日の竹虎に近づけるように竹節が一つ、また一つとあるように、一つづつやっていくだけなのです。
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