飯塚琅玕斎さんの作品が亡くなられて60年近くにもなるのに、今尚、竹芸界で光り輝き続けちゅうのは、どうしてですろうか?当時の竹工芸では古代色拭漆が一般的やったのを、晒竹素地の白錆籃(しらさびかご)という技法に変えたとか。竹刺編、束ね編、氷裂編、ひらき竹編などの編み方も考案されたと言います。けんど、その根底にあるのは作家の誰にも真似のできない感性であり、竹への愛情であると思うのです。
自分が初めて琅かん斎さんの作品に触れた時、竹芸家の技そのものに魅せられたのは当然なのですが、竹そのものにも魅せられる感動をおぼえたのです。日本人と竹編みの歴史は縄文時代にまで遡りますので、実は、ありとあらゆる編み方や技法は、既に試され先人がやり尽くした感があるがです。それなのに今まで見た事も感じた事もない新しさに驚いたのは、まさに竹の使い方、発想そのものにあったがです。
古い竹籠がひとつ飾られちょりました。随分前に名もない竹職人が編んだ、その竹籠の角のあしらいに、細く枝わかれした面白味のある自然竹をそのまま使われています。もしかしたら、たまたま近くにあった竹なのだろうか?生活の籠なので機能的な事が第一に要求されるはずの道具に、しかも、強度を保つ大事な角の部分に、ちょっとした遊び心の竹。本当に取るに足らないような、ささやかな事に見えるかも知れませんが、そうやって竹を使える深い造詣、親しさ、愛情、感性、ゆとり、琅玕斎さんの竹を拝見した時に思い出したのは、その竹籠やったのです。
この方は、きっと竹が好きでたまらんかったのだと思います。自分は田舎の竹屋で難しいことは分かりませんけんど、ただ、100年の竹の血が教えてくれゆう。誰よりも好きやったから、誰も真似のできない作品になっちゃある。
今回の展示は20点あり、そのうち6点は琅玕斎さんが61歳の時の創作。作家として円熟味を増して技の集大成のような風格を備えていますぞね。作品に対して、それぞれ汲み取れる意図や解釈もあるのでしょうが、自分がこれらの竹編みに向き合うて思うことは、同じ志を持ちたい、ただそれだけ。この方が命をかけたように、生きられたら素晴らしい。
1951年の作品の中に「黄威(きおどし)」という圧巻の作品があります。黄色い紐をつかった鎧の意味だそうですけんど、完成された技の上に、緻密さと大胆さと、引きこまれれます。孟宗竹の節のラインがしびれる、しびれる、こんな発想がどうして出来るのか?いくら聞いても答えてくれません。「魚の舞」、「むすび」、「〆(しめ)」、「萬年」、「蝉しぐれ」、同じ年に創作された作品が展示されちゅうだけでも、こんなにあるぜよ。わずか一年の間に、それぞれ、これほどの凄みのある竹を、次々に生みだされる中心は一体何やったがですろうか?誰ひとりいない静かな会場に蝉が鳴いちょりました。
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