明徳には吉田幸雄校長先生と、もう一人片腕とも言える野中義一先生という二人の偉人がおりました。もし、どちらかが居られなかったとしたら今の明徳はなかったですろう。今日は、そんな野中先生のお話をさせて頂きたいがです。
あれは高校二年の三学期の終わりの事やったです。明徳には朝礼の他に、夕礼という夜の集まりが毎日あります。夕礼の終了後にそれぞれの寮に帰って自習時間がはじまるのですが、その日、僕は部屋に帰らず野中義一先生を訪ねました。夕礼の時間が長引いたものですから夜も随分と遅かったというのに先生は外の仕事から帰られたばかりと言うご様子でした。当時、自分は何が出来るのか、何をして良いか分からず、校則違反ばかり起こしては謹慎を繰り返す退学寸前の問題児でした。このままではイカン!何とかしたくて先生に相談に行ったのです。
「先生、自分は弱い人間です、どうしたらエイでしょうか?」
「次の新学期からは心機一転したい」
何としても明徳を卒業したい一心でお話しさせてもらいました。中途半端で何をやってもダメな学生生活やったがですが、もし卒業まで出来ないとなると、それからの自分は本当に何をやっても出来ないような気がしちょったのです。
自分のような落ちこぼれは明徳倶楽部(勤労学習部)という土木作業専門に行う倶楽部に入れられちょりました。山を切り崩し、整地し、新しい道路や建物やグランドを造って、どんどん学校を拡張していた当時の明徳には、若い労働力はいくらあっても足りない位で、しなければならない仕事は、それこそいくらでもあったがです。
その明徳倶楽部の部長とも言えるのが野中義一先生でした。吉田幸雄校長先生と二人三脚でゼロから明徳を創り上げた野中先生。その超人的とも思える行動力と前向きなバイタリティには、心から尊敬して慕う生徒も多かったですが自分もそんな一人でした。野中先生は、その夜何も言わずに黙って自分の話を聞いてくれたのです。
春休みに入る時には新しい寮の部屋替えが発表されます。部屋を移り、休み期間中の倶楽部活動や帰省があり、そして新学期を迎えるのです。六年間、学期が変わるごとに繰り返されてきた部屋替えは、明徳の全校生徒が大移動する一大イベントであり、誰と同室になるのかワクワクする楽しい一日でもありました。けんど、この時の発表は特別やったがです。30数年経った今でも忘れる事ができません。
いつもの寮で名前を探しますが友人の名前はアチコチにあるものの、自分の名前だけが、いっこうに見つからないのです。おかしいにゃあ...そう言いながら、まさかと思い別の寮を見てみると、何とっ!別棟の寮に自分の名前があったのです。しかも、本当に驚いて放心状態になりました。
自分の名前の上には「寮長」と書かれちょったのです。
「りょ...寮長......」
ビックリして声も出なかったです。明徳の寮長を任される生徒と言うのは、それぞれの倶楽部で主将であるとか、品行方正で人望を集めている、誰もが認めるリーダーシップがあるなど、学校の中でもエリートのような特別な存在でした。それが、自分のように退学寸前、倶楽部活動も勉強も何をやってもダメな生徒が任命されるなど、普通なら考えられない事やったのです。寮長になったと話しても両親さえも笑って信じなかったような大抜擢!一階に36名、二階に36名の合計72名の寮生をまとめる、悪戦苦闘の高校三年の一学期が始まります。
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