茶碗籠の思い出

籐巻椀かご


どうも前々から茶碗籠への思い入れがあると感じちょります。それも、そのはず自分の小さい頃にはこのような竹籠いっぱいに、お茶碗やら湯飲みやら小皿やお箸まで洗ったものを丁寧に重ねながら、少しでも沢山の量を水切りして乾燥させられるようにギッシリと詰め込んだ、堂々と胸をはる誇らしく見えた竹籠ばっかり見て育っちゅうがです。


今の竹虎で販売させていただく茶碗籠は、一家の人数が少なくなったり、一人暮らしの方が増えたりしてきた、現代日本の生活ぶりを考えて、小振りなサイズにして久しいのですが、遠い昔の記憶の中にある竹籠は、それは豪快やったぜよ。小さい子供やったらようやっと抱えるような大振りな籠で、おそらく食器類を一杯入れたら持ち上げる事さえ出来んかったがではないろうか?


籐巻椀籠


家族の人数の多い事もありましたし、高知の風習である「お客」と言われる宴席があったり、竹虎の場合やと県外から来られたお取引先様をもてなしたり、職人や社員がやってきて料理を囲むなど、上等な食事というワケではありませんけんど地元の海や山の幸を沢山の人達で食する機会は今とは比べものにならないほど多かったがです。


使う食器の数も人数に比例して多くなりますので、大きな竹籠が必要という事は、それだけ沢山の人が集まっちゅういう証やにゃあ。多く集まる事は、どっちにせよ嬉しい事でもあるし楽しい事やったですきに、その思い出と茶碗籠が引っついちゅうがやろうかにゃあ。


まあ、いずれにせよ、そんな思い出のない若い世代の方であったとしても、小さい頃にもそんな習慣のなかった地方の方でも、竹編みに食器は、どこか懐かしく、格好がエイとは思われませんろうか?竹と日本人の関わりは長く、深いものです。知らず知らずの内に身体に染みこんだ感性に囁きかけるような気がしますぞね。じっと見ていると何か思い出す事もあるかも知れませんぞね。


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