人間国宝、生野祥雲斎

虎竹の里


生野祥雲斎さんは竹細工職人として人間国宝になられたはじめての方であり、別府竹細工の名を全国に轟かせた方と聞いちょります。重要無形文化財保持者(人間国宝)になられたのが1967年の事ですき、自分は、まだまだ小さくお会いさせて頂く事もなかったですが、その足跡をたどると日本の竹細工や竹に関わる全ての方に明るい希望の光と、竹の道しるべを示してくれたそんな松明のような方だったのではないかと思うちょります。


「自分がしていることは蔑まれた竹細工かもしれないが、工芸の域にまでどうにか向上させたのだ。」


人間国宝になられた時の、この言葉に竹一筋に生きて来られて、ご自身の編まれた竹籠がアメリカのスミソニアン博物館に170点以上も収蔵された事でも名工として知られた竹職人廣島一夫さんも、同じ竹の道を歩む者として、誇らしく思われたそうながです。けんど、生野祥雲斎さんに勇気を頂いたのは、きっと廣島さんだけではないですろう。おそらく日本全国の数えきれないほどの竹職人さんの心を奮い起こさせ、各地に根をはる「竹」にどれだけの明かりを灯したかと思うがぞね。


そして、誇らしく感じられたと言う廣島さんも、今度はご自身が松明のように燃え上がり周りを照らし、次の世代がその光を目指して歩みだし、歩みつづけていく。また、今度は更に若い世代がその後に続いていく。竹と人との関わりは、今までも、これらかも変化を続けていきますろう。竹の根がどこまでも伸びて毎年時期になったら、あちらこちらから筍が顔を出すように、新しい命を芽吹きながらずっと続いてきますろう。


それが先人の願いであり、祈りであると思うちょります。自分の祖父、竹虎二代目義治が会社の前におかれた石碑に刻む言葉も「竹の子の、また竹の子の、竹の子の子の子の末も茂るめでたさ」竹を繋いでいくがぜよ。


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