現代の名工と言われた故・廣島一夫さんには、たった一度だけお目にかかった事があるがです。「あんた、何?四国から来たとね...」手渡した名刺を、じっと見つめよったかと思うと、こちらに向けていただいた優しい眼差しが印象的やったがです。
廣島さんが弟子入りしたのが1930年の事と言いますきに、なんと80年もの長きにわたって竹にかかわり竹と共に生きて来られた大先輩ぞね。長く続いて来た竹細工が、ご自分の世代で消えていくことは誰よりも寂しいと思われちょったがですろう。後に続く若い職人さんの指導に心を砕かれているように見えました。
先月の終わりやったと思いますが「かるい」と呼ばれる背負い籠のお話させていただきましたけんど、廣島さんも同じ宮崎県の日之影町でずっと竹細工職人として活躍され、作られた様々な籠はアメリカのスミソニアン博物館にも収蔵されちゅうという、まさに名人と呼ぶにふさわしい方ながです。
廣島さんの仕事ぶりは拝見することはできませんでしたが、残された作品はどれも竹への思いと、使い手への思いを感じる、美しさと丈夫さ、究極の竹細工のような竹編みばかりぜよ。特にこの日、目がとまったがはシタミカゴと言われる魚籠ぞね。肩の部分が角張った魚籠は他の地域でも見られるけんど、この優美な形、編み目の細やかさ、まっこと非の打ち所がないちや。見た目ばかりではないぞね、首の部分の竹輪や底部分、本体部分への丁寧な力竹の入り方は、実際に使うてはじめてその真価を発揮する本物の竹籠やと感じさせるがです。
廣島さんとは、あまり多くを話せちょりません。けんど、後になって使われていた愛用の道具に「廣島」と刻印されたものを拝見させていただいた時、ご自分の長い竹の道に自信と誇りをもって歩まれてきたことを生前お会いした時と同じような控えめな笑顔で、しかし、はっきりと強い意志をもって伝えられたような気がしたがです。
竹の道への誇り。これは廣島さんの言葉として活字で残されちゅうものですが、竹職人として初めて人間国宝になられた生野祥雲斎(しょうのしゅううんさい)さんの名前が登場しちょります。同じ竹を扱う者として世間に認められた生野祥雲斎さんの活躍は励みにもなり、心から嬉しかった事ではないかと思うがです。
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