昔から山岸家には不思議な料理があったがぜよ。牛肉、タマネギ、じゃがいもの入った透明な塩味のシチュー。小さい頃から何度も食べた記憶がありますけんど、大学を卒業して竹虎の下働きとして勤めだすと実店舗や出張で忙しい母に代わり、祖母が食事の支度をしてくれるようになって、結構頻繁に食べる事ができるようになったがです。
二十代そこそこ、田舎でコレと言う楽しみもなく、竹の事もまったく分からない中で唯一楽しみやったのがこの料理上手の祖母の食事ぜよ。そして中でも、このシチューは大好物。真っ黒に汚れた上着を勝手口で脱ぎ捨ててドアを開ける。温かいこのシチューの香りが漂ってきたなら、面白くなくて、疲れて、うつむいた顔で帰ってきた自分に思わず笑顔が戻ってくるがです!手を洗う事も忘れて大鍋に走り寄って行ったちや。
竹虎は元々は大阪天王寺に工場があったがです。もう随分と前の話、そう太平洋戦争の前までは虎竹を高知から大阪までずっと運んで営業させてもらいよりました。虎竹の里には曾ばあさんの里がありましたので、空襲が激しくなる中、疎開していて、大阪の自宅も工場も全て焼けてしまった後に本社を現在の高知県須崎市安和の虎竹の里に移したという歴史があるがぜよ。
祖父も祖母も、ずっと大阪弁やったにゃあ。小さい頃から全国の竹屋さんに祖父に連れられて回った、おじいちゃん子の自分には大阪弁は、こじゃんと馴染みのある懐かしい言葉でもあるがぞね。だから、祖母が大阪の食堂の娘さんで、ずっと店の切り盛りを手伝いよった事、他では見かける事のないシチューが、その店の一番人気やった事、そんな事は誰からともなく聞いて知っちょりましたけんど何十年も前の話、すでに店も何も無くなっちゅうとばかり思いよりました。
ところが何と言うことやろうか、祖母がいなくなって何年も経ってから、大阪の親戚から、ふと「かね又」の事を聞いて気になって調べたら何と天神橋筋六丁目に「かね又」がやるやいか!しかも特製シチューと大きな文字で書かれちゅう!
間違いない...
いきなり心臓がドクドクしてきましたきに、ずっと自分の親しんで来たシチューしばらく食べていない山岸家のシチューのルーツがここにある!?
出して頂いた特製シチューは、祖母のものと同じやった。立ち上る真っ白い雲のような湯気を黙って見ていたら泣けてきた。なので、塩味のきいたシチューですけんど更にしょっぱくなったかも知れんにゃあ。
現在の「かね又」を経営されゆう方は、本店で修行されて暖簾分けされたと話してくれました。かっては新世界、千日前、松島、福島という大阪の繁華街にそれぞれあった中で残った最後の一軒ながです。けんど、こうやって味を守り続けてくれちゅう事に、まっこと感激ぜよ、他では見かけない特製シチューはロシアの船員から料理を習ったのがベースになっちゅうそうぜよ。そんな今まで知らなかった事も聞く事ができたがです。
そして実はこのシチュー、織田作之助の小説「アド・バルーン」に登場しちょって、生誕100年という事でオダサクグルメなどとも呼ばれ、ちっくと騒がれちょったようですちや。難波自由軒のカレーでも知られた作家が祖母の店にも来たがやろうか?まっこと考えたら面白いものですちや。
けんど、自分にとっては祖母のシチュー。店を出てから、まっすぐ帰る気がせんかった。その頃の祖父母の面影を探すように街を何時間も歩いたがぜよ。疲れて空を見上げたら、こじゃんと綺麗な夕暮れになっちょりました。祖母も生まれ育った街から遠く離れた南国土佐で、こんな空を懐かしんでシチューを作ってくれたがやろうか?大阪の都会から、こんな竹しかない田舎へ祖父について来て帰りたい事もあったがやないろうか?辛い事もあったろう?
孫の自分には何ちゃあ言わん、いつも優しい祖母やったけんど、そう思うたらあのシチューは日本唯一の虎竹を支え続けてきてくれた味ぞね。こうやって改めて大きな意志の中で自分が生かされちゅう事を思う時、まだまだ竹虎四代目として何の使命も果たせちょらんにゃあ。
虎竹が積み込まれちゅう土場に出るがぜよ。焼坂の山から冷たい北風が吹きおろして来る、顔が冷たくなってきた...。おばあちゃん、まだまだ会えんけんど待ちよっとうせや。自分がやる事をやった後で、竹虎の100年を見届けた後で、又あのアツアツのシチューを作ってもらいたいがぜよ。